昭和五十七年五月九日 朝の御理解
御理解第三十六節
日本国中のあらゆる神を、みな信心するいうが、それはあまりの信心じゃ。人にものを頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。
私共が一心を立てると。一心を立てたら、神様も氏子一心になって下さるというような一心でなからなければならない。
私はもう金光教に決めた。もう拝むのは金光様だけだというような、だけでは一心という風には云えない。すぐにおかげが受けられるといったような一心。
それは神様もまた、一心になって下さる。私共も一心。そういう一心とはどういう一心だろうかというなら、私共大坪家はそうですね。もう信心を頂くようになって、やっぱ八十年にもなりますでしょうか。私の婆の時代からでございますから、もう勿論もう金光様一本で、他の仏様やら神様やら、というのは拝んではおりません。
ま、金光様一本、金光様金光様でね、おかげを頂いてそして参りましたが、成る程おかげはやっぱずうっと頂いて来とりますからこそ、やっぱ信心もやめられなかったですけど、それはやっぱり、おかげをおかげにとどまってしまっておる。金光大神がいわれる本当の、信心すれば誰でもお徳が受けられるといったようなおかげではなかったね。ま、私が三代目の信心を頂かしてもらう、私自身もやはり、初めの間はおかげおかげの信心でしたけれども、一心を立てるということが、いわゆる真心一心と。
昨日、久留米の春の御大祭。久留米支部の。あそこで私は初めて見ました。おそらく誰かが、私が頂いたのではなくて、誰かがお知らせを頂かれたものを、私が書いて差し上げたんだろうと思いますけど、短冊掛けに「一心一平」という短冊が掛けてあった。どういうことだろうかとね。
私共がおかげを何十年間、受けたきたということが、金光様一本で、他に迷うこともなしにおかげをま、細々ながらおかげを頂いて来たけれども、私が一心を立てらせて頂くようになったという一心は、私共の親たちが思うてきた一心とはちょっと違ったように思う。ま、それこそ真心一心であったと思う。いや、真心一心を目指したと思う。いうなら真の信心を目指したと思う。
そこに、神様のいうなら、私向けの一心を出して来られたのが、過去、私の信心の三十年間だと思うですね。本気で真の信心が頂きたいと一心を立てたから、本当に真の信心をさせて下さろうとする働きが、ま、場合にはこれでもか、これでもかという本当なものかどうかを、試されるやはり神様としても、ま、本当なものをやるからには、というやっぱ神様としても、責任を感じられるのではないでしょうか。
だからこれなら、間違いないという見定めがつかれたところから、いわゆる私に一心を向けて、一心を持って修行させて下さり、おためしを下さり、いろいろとおかげを下さって、それが今日の合楽になっておると思うね。
本当に私、合楽一本ですという人がね、なら、様々なおためしの中にありましてもです、ね、どういうことがあってもですね、いうならば動じない、疑わない、もう信じ切ってのそれを頂き、そして、現していうという信心が、ま、出来たときに、まあいうなら、不動のもの、と神様が見極めなさった時に、初めて神様が神様もまた、一心の働きと私が願っておる真の信心を次から次と教えて下さる。一辺に教えてもなかなか分からんからね。
おそらく、私が一生涯かかって、神様は教えて下さろうと思うね、合楽巨魁でね、ま、合楽理念といわれるこれは間違いないことですけれども、その合楽理念をいよいよ、限りなく頂いていくためには、より本当な事を教えて頂かなければならん。また神様もより本当なことを、一つ一つこう教えていって下さる。これは限りないことだと思うね。
だからどうしても、そこにですね、本気に一心を立てて真の信心が頂きたいと念願する信心を、私は一心と思うですね。
この方一心と定めるね。ただ他の神様やら、仏様は拝みません。もう金光様一本ですという人は世の中に沢山ありますけれどもね、それもやはり一心、おかげを受けるでしょうけれども、神様が下さろうとする、本当のおかげはやはり御神徳です。
いうなら、神様の御信用がいよいよ厚くなっていくために、私共がどうしても、真一心の信心。いわゆる一心の真をね、表してもろうての信心。いわゆる真の信心を目指さなければ神様も本当な意味において、一心になって下さらない。
勿論一心になって下さったから、と云うて限りがないね。より本当な事を教えて下さる。そのより本当な事が分かっていくたびに、私の心が開け、これは私の場合は、私の心が開けてくる。
私は昨夜から、ま、それこそ、有り難うして、有り難うして眠れない位に有り難かった。今朝のあちらの宅の方の神様の前で、もうそれそこ涙がこぼれてしようがなかった。こういうことが芯に有り難いと思うのだろうとこう思う。一心を出すと、すぐにおかげが受けられると仰せられる。一心を出したら、神様も一心になって下さる。そこから一心と一心ととの交流があってね。そこから生みなされてくるというか、心が開けてくるというおかげを受けられる。
昨夜この頃、私の食生活が大変乱れておって、頂いたり頂かなかったり、何が頂けるやら分からないというような、もうおごちそうを見ると、おごちそうであればあるほど、こ、あの食べられないというような感じなんですよね。ですからいつもお腹は空いているようであって食べられないといったような感じ。
で夕べ帰らせてもらって、御祈念が済んでからでしたから、ここ夜の御祈念。おもちが食べたいなあと思ったんです。しかも納豆で食べたいと思ったから、食堂の方へ云うてありましたから、おもちもあります、納豆もありますというので、おもちと納豆で頂いたら、おいしゅう、あのおいしゅう頂けれるんですね。最後にところ天までだして、そのところ天もおいしゅう頂いたんです。
そしてから、ま、すぐ寝させて頂いて思うのですが、はあ、おもちが食べたいと思ったら、おもちがある。納豆が食べたいと思ったら納豆があり、これは一体どういうような事だろうかとこう、段々思いにふけらせて頂いておりましたら、ははぁ、神様は私を中心にして働いておられるなぁということでございます。
・・・(音声不良)・・・人間生身を持っておりますから、身体に変症もありますけど・・・・・腫れたり、手が腫れたり致します。まあ病気でいうなら、腎臓なら、腎臓ということでしょうかね、だからその腎臓なら腎臓を頂いておるということも、私を中心にして働いて下さったのであり、例えば私が学院に行かねばならんというときに、それこそあの、全然分からなかったが、糖尿病だということであった。
だから学院ではその受け付けない、というので、ま、検定試験でおかげを頂いたような事でございましたがね、ま、そん時も、糖尿病という名の神様の御都合だなあという風にま、思うて参りましたから、いうなら、先だってから頂きますように、応用問題で頂いたら、すぐ分からなければならんことに、この頃はそれが感じられなかった。
ところが昨日はその、おもちを頂いたり、納豆を頂いたところから、ははぁ、神様が私を中心にしている、糖尿病である私を中心にしての腎臓病である。それには、あれこれ、食べたり飲んだりしたんでは、いけんから、食べられないように神様が、私を中心に働いておられるんだなあと、分からせて頂いたら、もう、有り難い有り難いの、これはもう一事が万事、そうなんだ。これからとてもそうなんだ。
腹が痛かろうが、頭が痛かろうがそれは神様が私を中心にして、に、働いておられるんだということになるときに、初めて一切が神愛であるとかね、神様が私の上に現れておるんだという風にね、神願が私の上に現れておるんだという風にね、神願が私の上に現れておられるのであるね。
どうして食べられんじゃろか、こんなおごちそうは見ただけで胸がムカムカする、どうしてだろうかと。こりゃ、私は地獄に行っとるとじゃろか、山海の珍味が前にあっても、それが食べられないんじゃが、これは地獄に行っとるとじゃないやろかと、思うくらいに、その食べられないね。
ところがそういうものを食べたり飲んだりではいけないから、神様が私を中心にして、働いておられるんだと。それで、なら、なあ、なら、あれを食べてみたい、あれを食べてみろうかなと思うと、そこに餅があり、納豆がありという、これはもういよいよ持って、神様が私を中心に働いておられるんだなと。
これは皆さん私だけの事ではない、とりわけこれは信心があっても、なかっても、そうでしょうけれども、それが分かるのは、信心させて頂かなければわからん。皆さんの上に起きてくる一切の問題も、神様があなたを中心にして働いておられる現れが痛いことであったり、痒いことであったり、面白いことであったり、楽しいことであるのですね。一切が神愛と分かるということはね、そういうことだと思うのですね。
それがなら、分かったからでしょうか、今日の私に下さる神様が私の心からどこから沸いてくるか分からん喜びが与えて下さる。芯に有り難いという心であるね。この一心を出すとすぐにおかげが受けられるともう、すぐに下さった私に対するおかげであるね。
私を中心にして働いて下さるね。だからそれを、いよいよね、実感させていただくところから、芯に有り難いものが感じられるのでありね、神様が私共が一心を出すことによって、神様も一心になって下さるおかげとはそういうおかげをいうのではなかろうかね。
どうしてこんなに難儀が続くのだろうか。どうしてこんなに思うようにならんのだろうかと。まあだ、あなたが一心を出しとらんから、わからんね。一心を出さして頂いたら、私のために下さるこれは、修行である、私のために下さる特別の神様のおためしであると実感できれる。
そこからこのおためしに落第してはならんとか、またこの働きを無にしてはならんとかという働きが、心の中に起こって来るんじゃないでしょうかね。神様が私を中心に働いて下さる。一心一平とは、こういうことだなという風に昨日は分からなかったけれども、今日感じさせて頂いておりますね。
ですから一心を立てるところから、神様も一心になって下さる。いいや、私はもう金光様一心、というそれとは違うね。まずはなら、真の信心が分かりたいという一心を出さなければならないね。真の信心を下さろうとするためには、神様が様々に教えて下さる様々におためし下さるね。それを私は頂き受け抜いて初めてね、はあ、これが真の信心だというものに、触れる事が出来る。
しかも真の信心というのは、また限りがない。合楽理念の進歩が限りないといわれるようにね、序の口に入った。
人間の助かりの理念というものがここに出来たというように、その序の口に入る、これを極めて行くなら、これはなら、私自身とても、おそらく一生がかりの事であろうし、またこれが本当だと、こ、確信を持って信心させて頂いとるうちに、また、次のいうなら、より本当の事を教えて下さるに違いはない。
今まで私がね、食物の上にも感じられなかった、なあ、神様が私を中心にして働いて下さってある。それだと分からせて頂い時に、いうならば、どこから沸いてくるか分からん、有り難い心に浸る事が出来るね。
皆さん金光様一本という一心からね、今度は金光様の御信心芯になるところの、ま、合楽では、それを天地日月の心、といわれるが、本気で、天地日月の心にならせて頂きたいという心は真の信心ですね。
それに一心を向けて、ここは天の心で、地の心でといただいていくうちにです、ね、わたしの周辺に起きてくる一切が、私の為に神様が働いて下さってある働きと分からせて頂いたときに、初めて私は一切神愛といわれる、その、神愛の内容が分かって来たときという風に思いますね。 どうぞ